楽しく美味しい鹿児島暮らし

僕が伊佐に住み始めた理由。その弐。

 

東日本大震災は、僕の価値観を根こそぎ揺さぶった。

が、それは、僕に限った話では、もちろん、なかった。

伊佐支局に赴任してしばらく。湧水町であった防災対策会議の取材現場で、懐かしい顔と再会した。彼は、鹿児島大学のY教授。土木工学の専門家として、当時、鹿児島市の甲突川にかかっていた石橋の移設検討会議の座長を務めていた。

1993(平成5)年8月6日。鹿児島市は未曾有の豪雨に襲われた。のちに「8・6水害」として語り継がれる大災害だ。川はあふれ、崖は崩れ、市街地は泥水に覆い尽くされた。携帯電話がまだ普及していなかった時代。公衆電話に人が並び、車があちこちで浮かび、転覆した。

当時、鹿児島市の甲突川には「五石橋」と呼ばれる石橋があった。

実は、この日の昼過ぎ。僕は、今勤めている新聞社の内定通知をもらった。そして、昼からひとり酒をくらった。就職が決まった安堵感もあったんだろう…夕方前には眠りに落ちた。当時の住まいは鹿児島市の高台にある桜ヶ丘団地だった。夜になり、アパートをたたく雨音で目を覚ました。おもむろにテレビをつけた。市街地で、エゲツない雨が降っていることを知る。そして…狂気じみた実況が耳に飛び込んできた。

「新上橋が…新上橋が、流されています。石組みが崩れて流されています」

ただごとならぬことが起きていることは、容易に想像できた。これから新聞記者として生きていく覚悟を決める意味でも、現場を見たい、見なきゃいけない衝動にかられた。雨が治まるのを待ち、日付が変わった頃、車を市街地へ走らせた。草牟田で見た光景は今も鮮明に覚えてる。車が仰向けにひっくり返り、国道沿いの店は中まで泥まみれだ。それから桜ヶ丘のアパートへ帰るまでは、絶望感にひしがれ、まったく記憶がない。唯一、タイヤが四輪ともパンクしていたことをのぞいて。それから数日の記憶もたどれない。それほど衝撃的だった。

この水害の「元凶」として、甲突川にかかっていた石橋が槍玉に上がった。漂流物が石橋に堰き止められ、川の流れが遮られ、水が市街地にあふれたんだ、と。日に日に、行政側は、石橋撤去へ舵を切る。「撤去か、保存か」。まだ取材にも出ていない僕は、この議論を遠巻きに見ていた。

市民グループは、高麗橋の橋上にテントを張り、撤去作業へ強硬に反発した。ある日、警察が動員され、市民グループを強制排除した。怒号と悲鳴が飛び交う光景は今も忘れない。

石橋の撤去、そして、現状のまま石橋公園へ移設する作業が始まる頃、僕は取材現場へ出た。そこで、僕は、冒頭のY教授と対峙したんだ。Y教授とは、撤去か、保存かを巡って、何度も激論を交わした。「撤去を後押しする立場で、行政から金銭をもらってるんじゃないのか?」。いま思えば、随分、感情的なやり取りもあった。

あれから15年あまり。今から7年前か。

「お久しぶりです」「ああ、懐かしいですね」

「その節はいろいろ…」「ああ、失礼なこと言われましたねえ(苦笑)」

挨拶もそこそこに、東日本大震災の話になった。僕が、大学で原子力工学を学んでいたこと。福島第1原発の事故が衝撃すぎたこと。そんなことを伝えた。すると、Y教授は静かに言葉を紡いだ。

「僕は土木工学の専門家としてね、コンクリート最強説を生徒に教えてきたんだよ…壊れたよね。防波堤…。万里の長城って言われた防波堤。津波にやられた。もろかったね。科学は自然に勝てないんだ。今更ながらに知ったよ。人間は、自然に対して謙虚じゃなきゃだめだ。万能な科学は存在しないんだよ」

2つの災害が、僕とY教授を再会させた。因縁を感じざるを得なかった。

「原子力から原始力へ」。伊佐では、1つのプロジェクトが動き始めていたんだ。

 

つづく。

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